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場所の空気感
エッセイ

text:オカッコ
 
博物館の空気が苦手だ。どうも展示品の生気の抜けた空気に居心地の悪さを覚える。多分、展示されている品々が、もともと使用していた所有者から離れ、そのもの事体の本来の意味がなくなり生気を無くしているためかもしれない。博物館は一種、幽霊屋敷きのように思える。




東京に住んでいると、地元、京都に帰るのは観光旅行のようなものだ。昨年の帰省の際には、光悦寺を訪ねた。なぜ、このお寺にいったかというと、「本阿弥光悦という江戸時代初期の文化人が、刀剣の鑑定や研磨を家業とする彼の一族の縁者や工芸職人が住居する芸術村を作った。この村が、光悦の死後、お寺となり光悦寺となった」との紹介文を読んだのがきっかけだ。職人達の村。さぞ、お庭や建物が凝っているのだろうと期待をしていった。しかし実際は、閑散、殺伐とした空気が流れ、期待に沿う風景に出会うことが出来ないところだった。
 
期待が大きかっただけに落胆しながらその後、高麗美術館の関係者が営むカフェにいった。京都市内にある「李青(りせい)」という店で、朝鮮半島の骨董品や、歴史書や美術本が沢山置かれている個性を持ったとこだ。店内では、喫茶を楽しみながら高麗に触れることが出来る。お茶の合間に店内の本棚を眺めると、民芸運動の創始者、柳宗悦が美について綴った本を見つけた。手にとり、ページを開くと、光悦寺について書かれた章があった。さっそく読んでみると、創始者の意思が受け継がれていない。それ故、残念なことに、かつて職人が住んでいたころの空気が出ていないといった内容が書かれていた。がっかりした理由を、宗悦の文面で明確に理解した。

それから、約1年後。東京の駒場にある、柳宗悦が創始者である日本民藝館を訪れた。入場時間より少し早めにいったので、民芸館で働いていると思われる人々が、一生懸命、玄関先や館内を掃除をしている姿を見かけた。この姿は、どこかお寺のお坊さん達が早朝に境内を掃除をする光景に似ていた。入場時間になり、館内に入ると清潔感と厳かな空気に出迎えられた。

館内の作品を鑑賞中にあることに気がついた。全ての展示物の作品名が、黒の札に朱色の墨で手書きで記されていることだ。不思議に思い、館内のスタッフに訪ねたところ、設立当時から続いている表記方法とのこと。しかも、作品に説明文を附随しないことも、設立当時から続いているそうだ。それも説明により、鑑賞者の感覚を固定させたくないという創始者の思いの反映だと教えて貰った。

古いものが多く置かれる場所は基本的に苦手だが、駒場の日本民芸館では苦手と思わず、むしろそこに流れる空気に好意を抱けた。それも、創始者の意思が今もなお受け継がれていたのを察知できたからに違いない。残されたものは、残った人々の思いのこもった意識で生気を保つのだろう。
by art-drops | 2007-08-13 12:01 | エッセイ
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