全力で走り続ける。自分が、そして世界が、ただ生き続けるために。 芹沢高志さん(55)は、都市・地域計画家、アートディレクターの顔を持つ。 そして、その他にも翻訳や執筆活動も行う傍ら、ご自身が代表を務めるP3 art and environmentの運営も行っている。多種多様な活動のバランスをとる秘訣は何なのか。また、大規模な展覧会やイベントをいくつも展開する中で、個性豊かなアーティストや作品をひとつにまとめる秘訣とは何なのか。 ■未来は変えられるのか 1951年、芹沢高志さんは東京都に生まれる。 失恋がきっかけで、もう東京にはいたくないと神戸の大学へと進学する。その地で、大学1年生の時、最愛の人となる妻と出会う。 同じく大学3年生の時に読んだバックミンスター・フラー著『宇宙船地球号操縦マニュアル』から大きな影響を受けた。 「確かあの本の中で、フラーが語った『イニシアティブをとるのは計画家であり、建築家であり、エンジニアだ』という言葉を真に受けて建築科に進路変更したんだっけ」。 神戸大学数学科を卒業後、横浜国立大学の建築学科に学士入学した。しかし、同級生との年齢差もあってどこか馴染めないまま、大学をやめようと思い始めた。まさにその矢先、大学に講演に来ていた磯辺行久氏と出会う。 磯辺氏が代表を務める土地利用計画を研究する機関R.P.Tをアルバイトとして手伝ううち、フラーの語った計画家の意味を実感していく。 卒業後は、研究員として、およそ10年に渡り、R.P.Tに関わった。 多感な10代~20代にかけて過ごした1960~1970年代は、敗戦国日本が高度成長をとげる一方で、水俣病に代表される公害病の問題、学生運動、オイルショック、ベトナム戦争など、日本だけでなく世界中で歪が噴出していた。 巨大な時代のうねりの中で、世界に対する無力さを思い知る。その一方で、この世界に対して、何かできることはないのかとも考えるようになった。 「未来は変えられるのか。それとも、はじめから決まっているのか」。 時代から受けた影響は、まるで予め定められていたかのようにも思える様々な邂逅もあいまって、その後の人生の大きな命題になっていった。 ■一冊の本との出会い 1981年、一冊の本と出会う。エリッヒ・ヤンツ著『自己組織化する宇宙』である。 『最終的に宇宙は熱的に死んでしまう』のではないかという考えを排し、『宇宙は、それ自体常に生き続けようとする存在である』という主張を、700ページ近くに渡り、様々な観点から展開している。6年かけてこの書籍を翻訳したことが、またしても人生に大きな影響を与えることになった。 ■一緒に創ろうぜ 『自己組織化する宇宙』が刊行された1986年は、現代アートと関わるようになった年でもあった。友人の紹介で東長寺新伽藍の建設に関与することになり、このことをきっかけとして、現在の活動基盤であるP3 art and environmentを設立する。以来、次々とプロジェクトチームを編成し、さまざまなプロジェクトを展開していく。 東長寺外観(左上)とインゴ・ギュンター「エクシビション・オ・エア」(1992)(右上)(ともに写真:萩原美寛) 「ぼくらP3では、ひとりのアーティストと組んでやることがほとんどなんです。ひとりのアーティストを丸々飲み込んで『こいつなんとかしようぜ』とか『一緒につくろうぜ』というノリなんです。資金面や施設面も含めてアーティストの出してきた案に対して徹底的に対話する。その後、プロデュース側とアーティスト側に分化してプロジェクトや展覧会をつくり上げていくんです」。 芹沢さんが代表を務めるP3の現在の主な活動は、アサヒビールが2002年に開始したアサヒ・アート・フェスティバルの事務局である。 このイベントは、ディレクターを置く従来型のアートイベントと違い、ディレクター自体が不在である。その代わり、およそ120名からなる実行委員会が対話による意思決定を行う。アサヒビールと市民が『一緒につくり上げる』実験的プロジェクトだ。P3の『一緒につくろうぜ』というスタイルとアサヒビールの目的が、まさにシンクロしている。 「ぼくは、新しいプロジェクトを生み出すプロジェクトこそ、良いプロジェクトだと思っています。だから、アサヒ・アート・フェスティバルでは、新しい出会いを生むような動きを加速させ、逆に阻害するような動きは鎮静化させていくよう努めています。なぜなら新しい出会いが、今までになかった新たな発想を生み、新しいプロジェクトを生み出す、まさに、“創造行為”だと思っているからです」。 また、今、自分がここにあるのは、これまで出会ってきた多くのすばらしい人との出会いがあってこそという思いも理由として存在する。 P3の『一緒につくろうぜ』という思いは、2002年に芹沢さんが総合ディレクターを務めた、とかち国際現代アート展デメーテルでも貫かれている。参加したオノ・ヨーコ、川俣正など10作家と徹底的な対話によって展覧会をつくり上げた。 帯広競馬場厩舎地区 川俣正「不在の競馬場」(2002)(写真:萩原美寛) 「ぼくはね、最初からまとめようと思わないんですよ。最初から決められた枠組みにアーティストを配置していくのって、アートじゃなくてデザインだと思っているから。だからといって好き勝手、野放図でいいというわけじゃない。同じ地平、そう、ビジョンは必要ですね。 総合ディレクターの仕事は、ビジョンをつくることだと思うな。ビジョンってね、砂漠で見る幻覚みたいなものですよ。まず、同じ幻覚を見れそうなやつらを選んで、次にビジョンを徹底的な対話によって共有する。その後は、アーティストに完全に任せちゃう」。 つくり手もプロデュース側も生きている人間だからこそ対話によって相互に触発され、予定調和ではない新しい何かが生まれると考える芹沢さんの展覧会のつくり方だ。 ■なぜ走り続けるのか 2005年にはデメーテルでの出会いがきっかけとなり、川俣正氏のもと、横浜トリエンナーレ2005のキュレーターを務めた。 会場入り口(左上)とヴォルフガング・ヴィンター&ベルトルト・ホルベルト「カステンハウ720.9ー横浜展望台」(右上)(ともに写真:細川浩伸) 都市・地域計画家、総合ディレクター、キュレーター、事務局としての活動、翻訳、執筆などありとあらゆる活動を次々とバランスよく展開していく秘訣はと尋ねると、意外にも自分のことを器用なタイプではないという。 「様々な分野を周遊することで、それぞれからインスピレーションを得ている節がある。だから、どれかひとつに活動を絞ると途端に失速してしまうような気がするんです」。 しかし、では、なぜそこまで走り続けるのだろうか。 「バクテリアってね、まずは走るんです。走って餌の匂いが濃くなると、そっちに向かって一目散に走る。餌の匂いが薄くなってきたら一旦立ち止まって、どこでもいい、また別の方向に走り出す。そして、同じことを繰り返す。餌の濃度に反応して走る。盲目的な走り方なのに、必ず、生き続ける方向に向かって走っているんです」。 バクテリア?ここに、走り続けてきた人生を紐解く大きなヒントがある。 ■未来は変えられる 20代前半、この世界に何かしたいという考えをもつ一方で、未来は変えられないのかもしれないとも考えることもあった。 しかし、まるで事故の連続のような人生を、常に目を逸らさず向き合ってきた。ひとつひとつの選択と行動が少しずつ周囲に影響を及ぼし、変化していく周囲からまた芹沢さん自身、影響を受けてきた。 そうして、一歩視点を引いたとき、未来は、はじめから決まっているのではなく、複雑多様に相互影響し合う、今、まさにダイナミックに生成され続けているものだという考えへと変わっていく。 また、『自己組織化する宇宙』の翻訳を通して、ヤンツが展開する『世界は、そして宇宙は、今、まさに、刻々と生成し続けるプロセスだ』というプロセス中心の世界観にも触発され、『未来は変えられる』という思いはいつしか確信へと変わっていった。 同時に、国境、人種を越えた多くのアーティストとの対話を通じて、この母なる地球に抱かれた、生き続けようとする生命自体、かけがえのないものだという思いは日増しに強くなっていく。 「アートって、絶望しかかった人の視点を希望へと転換させるマジックのような要素も持っていると思うんです。例えば、デメーテルでは、ぼくは“旅”をテーマとして展覧会をつくりました。様々な不条理な出来事にぶつかりながらも、目を逸らさずに向き合うことで、成長していく人生という“旅”です。 広大な敷地の中に、作品が点在し、観客はそれらを探して会場を巡っていく。現代アートはわからないというけれど、人生での方が、よっぽど不思議なこと、不条理なこと、わからないことに満ちているわけで、それから逃げないで、向き合い、これはなんだと考えることから、自分の殻が壊れ、新たな道が開けるかもしれない。ものの見方が変わり、世界の見方が変わり、そして、その人の未来をも変えるかもしれない」。 自分の行動と選択が、未来を希望的なものに変えられるという思いがあるからこそ全力で走り続ける。 「20代~30代を振り返って、大変だったなと思う。何でもできそうな気もしたし、何もできないような気もした。経験値がないから、何が向いているか向いていないかも分からない。ま、無意味に自信を持てばいいんです。目をそむけないで前を向いて歩け。誠実に生きればいいんです」。 若者に向けたメッセージには、みんなの行動と選択には未来を変えられる力が等しくあるのだという思いも込められている。 ■今後の活動 今も、新たな出会いは新たなプロジェクトを生み出し続けている。大分県在住の作家山出淳也さんとの出会いは、2009年、別府市で開催予定の『混浴温泉世界』という美術展に発展した。 また、茂木綾子さんとの出会いから映画『島の色 静かな声』の製作も進行中である。 ■結び 個性豊かなアーティストをひとつの展覧会にまとめる秘訣、多種多様な活動のバランスについて秘訣を探るべく芹沢さんのもとを訪れた。しかし、お話を聞いているうちに、そんな質問は意味を失っていた。芹沢さんはシンプルに全力で走り続けていた。ただ、自分が、そして世界が生き続けるために。 2005年の横浜トリエンナーレ2005のキュレーターとボランティア。それが、私の芹沢さんとの出会いのきっかけだった。 そういえば、art に関わる活動を続けようか迷っていた時、芹沢さんが応援してくださったことは大きかった。今、「新しい出会いが新たなプロジェクトを生む」という言葉と、自分の経験が初めてひとつにつながったような気がした。 ■プロフィール 芹沢高志 1951年 東京生まれ。 1989年、P3 art and environmentを設立。以後、現代美術、環境計画を中心に、数多くのプロジェクトを国際的に展開している。帯広競馬場で開かれた国際現代アート展「デメーテル」の総合ディレクター(2002)。アサヒ・アート・フェスティバル実行委員(2002-07)。横浜トリエンナーレ2005キュレーター(2005)。著書に「この惑星を遊動する」(岩波書店)、「月面からの眺め」(毎日新聞社)、訳書にバックミンスター・フラー「宇宙船地球号操縦マニュアル」(ちくま学芸文庫)、エリッヒ・ヤンツ「自己組織化する宇宙」など。 好きな言葉:災い転じて福と為す ※写真に書き込んである「愛は破れても親切は勝つ」とは、アメリカの小説家カート・ヴォネガットの名言です ■手書き一問一答 text:金子きよ子、edit:ドイケイコ、photo:ドイケイコ ※ すべての画像とテキストの無断転載を禁止します。
by art-drops
| 2007-05-15 05:08
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