レポート text:U→ 人間に必要とされる衣食住の中で、一回の経費がそれ程かからないのが食である。そのくせ、生死に最も直結している。食を考えるということは根源を辿る哲学的叡智の一端を垣間見ることになる。ということは、給料日前の昼間に何気なく買う安いメロンパン(左図)の中にも、現代美術が「表現することの意義と作品にある表出の強度」があるのと同じく、「食すことの意義とメロンパンが持つ味の強度」が潜んでいるのか…深い。 そんなことを考えて構成されたわけではないだろうが、2/2-2/18まで横浜のBankART1929にて《食と現代美術part3》が開催されていた。カタログを見れば判るように、展示会場自体がレストランとして構成されていて、各作品はメニューとして「陳列」されている。また、「日替わりメニュー」として出展作家とのワークショップ(1/12-1/31)や講演会とそれにまつわる食事(2/2-2/18)が出され、作品鑑賞というよりさながら食事を楽しみに行く感じであった。ただ、記者は夕方の閉館前時刻に二度鑑賞したため、昼間(11:30-14:30)のランチバイキングを楽しめなかったのが残念。 「食べる」ことばかりに気が取られてしまったが、展示空間がレストランのためそれにまつわる装飾や音楽、衣装も出展作品に含まれていたのは面白い。現代美術が我々の日常と、意外なところで接点を持つことを誰もが行く「レストラン」という形式によって体現して見せたキュレーション力を頌えておこう。しかしながら、そうした企画の面白さと裏腹に展示空間とのズレが目に付いた。 それは、旧第一国立銀行(現みずほ銀行)横浜支店という歴史の重さを纏った「モニュメンタリティ」を持つ内装と外装に全く手が加えられていない点に要因がありそうだ。「食事をする」ということは「腹が減ったから何か食う」という行為と明らかに趣が異なる。「食べる」という行為は、生命維持という機能を果たす前提がまずあるが、そこで生じるコミュニケーションや雰囲気を楽しむという行為も含まれている。この点に着目してトータルコーディネートを図った今回の展示は確かに評価できる。しかし、その「食事をする」のにあの折衷主義様式(※1)で固められた内装は、果たして相応しいものなのか。加えて、出展作品は、それ自体鑑賞していて楽しめるものが多い。だが、内装が折衷主義建築の空間そのもののため、ギャラリーの展覧会場に持ち込まれた感を強く感じた。「食にまつわる現代美術の作品を楽しむ」というより「食を素材とした美術作品をギャラリーで鑑賞する」。現代美術が食事と密接に関係しているということを主張したければその出展作品に合わせたスペースを提供しても良かったのではないか。例えば、コンビニ弁当のカラーコピーでランチョンマットにした作品には一人暮らしの若者の部屋を仕立てそこで展示するという風に。この手法はおそらく莫大なコストと手間もかかり、企画展を立ち上げることなどできなくなるだろう。 いかんせんよくある「レストラン」そのものが中華や和風、洋風料理をごたまぜで扱っているから、メニューとして「陳列」される作品同士の連関性や建築空間と出される料理の関係は今回のBankARTが取る展示方法が適切なのかもしれない。つまり食事に相応しい空間を構築し直すのではなく、ただ「食事」をすることに眼を向け面白さを見出すということだ。その内容に展示空間が「蝕」されているため、作品とのズレを感じたのかもしれない。 現代美術と絡んでいるのだから、従来の展示を覆してくれるような「展示空間」の構築を求めるのは酷なのか?展示「メニュー」にある「三陽」(左図)で「××麺(×には放送禁止用語が入る)」を食べながら、思った。 (※1)19世紀から20世紀にかけて勃興した、過去の様々な建築様式が用いられた建築様式を指す。19世紀に入り中世のゴシックや近世のルネサンス様式が再評価され、用途に応じて(教会ならゴシック庁舎などはルネサンス様式という風に)過去の建築様式が用いられた。そのためアドルフ・ロースやウイリアム・モリス、といった近代建築の先駆者達やニコラウス・ペヴスナー、ジークフリートギーディオンといった近代建築史家から蔑称的に「歴史主義様式」とも呼ばれている。代表的な作品はドイツのドレスデン歌劇場(1838-1841年、ゴッドフリード・ゼンパー)であるが、日本では東京駅(1914年、辰野金吾)、旧横浜正金銀行(現在は神奈川県立歴史博物館として保存されている。1904年、妻木頼黄)がドイツのバロック様式を色濃く反映した折衷様式である。
by art-drops
| 2007-02-19 01:58
| レポート
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