4月:頭=まとめる(バランス)力 ミュージシャン/榎田竜路さん
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「中心は愛だよ」

ミュージシャンでもあり、NPO法人横浜アートプロジェクトの理事長でもある榎田竜路さん(43)は、実際にお会いすると、大いに笑い、大いに吼え、豪放磊落そのものを生きているように見える方である。しかし、一方で傍目には到底片手間で出来るとは思えないハードな活動を、絶妙のバランス感覚で次々と同時進行している。バランスを保ってまとめる秘訣。そして、原動力は一体何なのだろうか。




■豊かな自然に育まれて

榎田竜路さんは1964年、福岡県に生まれる。生後3ヶ月で神奈川県海老名市に移るが、両親が事業を起こして忙しくなったため、小学校に上がるまで頻繁に鹿児島の祖母の家へ預けられた。

「それが良かったんだよね。鹿児島って自然が豊かでね。台風のときなんて町の若い人が家の窓や扉を外から釘で打ち付けていくんだよ。だからその人が、万が一、台風で流されちゃったら次の日は外に出られないわけ。それくらい大自然を感じながら育ったんだよ。鹿児島が本当の故郷だね」。

音楽を始めたのは13歳の頃。「最初の動機は単純さ。女の子にもてたい!これだよ」。憧れていた女の先輩に文化祭で一緒にギターを弾いて欲しい、と声をかけられたのがきっかけだった。

その後バンドを組み、Led Zeppelin や Deep Purpleといったロックを好んで演奏していた。そして、19歳でプロのヴォーカルとしてデビュー。当時の日本を代表するスタジオミュージシャン達が、 沖縄でのコンサートを計画しており、直前になってヴォーカルの人が行けなくなり、急遽代役として白羽の矢がたったことがきっかけだった。大学にも進学し、順風満帆。しかし、図らずも20歳でミュージシャンを引退することとなる。

「18歳の時の交通事故が原因だよ。大事故だったにもかかわらず、事故直後は3日で退院できたの。だけど、ある日、急に匂いを感じられなくなった。次に体が徐々に動かなくなった。交通事故の後遺症がその頃になって突然出てきたんだね。怖かったよ。じわじわ死んでいくみたいなんだから。身体を悪くしたから、大学も卒業するまで8年かかったよ」。

■再びミュージシャンとして

体を治したい一心で、26歳のとき、野口裕之さんが主催する社団法人整体協会「身体教育研究所」の門を叩く。ここで学んだ『人間が本来持っている多様な感覚を感じきることで、本来の力を引き出す』という考え方が、その後の人生を大きく変えるきっかけとなった。師匠である野口さんが一貫して伝え続けていたのは、生命を見つめるまなざしだった。多様な感覚を感じるための稽古を重ねるうち、いつしか体が動くようになっていた。

体が動くようになったものの、既にミュージシャンは引退していたため、30歳のとき、父親の経営する会社に事務として入社した。榎田さんの父は海老名市で送電線工事などを行う会社を経営していた。

「でも、明らかに向いてなかったね。意志が弱いとかじゃないんだよ。向いていないの。俺は、ただ好き勝手に生きたいだけなんだから」。


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一人息子だったため、家業を継がねばならないという思いと、好き勝手に生きたいという葛藤に悩んだ。しかし、榎田さんが33歳のとき、父親は潔く商売を畳む。

「親父は偉いよね。息子に自分の商売を継がせるんじゃなくって、『お前、どうせ苦労するなら好きなことで苦労しろ』と。だけど、いざ放り出されると、今度は何をしていいか分からなかったんだよ」。

悶々とする日々。そんな状況を打開したのは妻の「竜さん、あなたには音楽があるじゃない」。という一言だった。年齢的に遅すぎるのではないかという不安も大きかった。しかし、たった一人でも自分を理解して支えてくれている人がいることが、一歩を踏み出す大きな支えになった。33歳、再びミュージシャンとして再出発した。

「最初の1年こそ食えなくてアルバイトしたけど、もうかれこれ10年、好き勝手やってなんとかなっているね。コツはね、『今、目の前にあることを絶対にやる』ということ。よく、天職を見つけたい、と言う人がいるでしょ。セミナーに行って簡単に天職が見つかるなんてことはないんだよ。今、居るところに意味があるんだよ。もし、意味がないと思いながら仕事をしているなら、意味は自分でつけたらいいんだよ」。

■伝わるものコンサート

2001年、子供たちに自由とはどんな感覚であるかを伝えるために伝わるものコンサートを開始。現在まで60回開催している。きっかけは、小学生に即興演奏を教えにいったことだった。


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伝わるものコンサートvol.52

「小学生に即興演奏を教えるとき、3年生以上に絶対言っちゃいけない言葉がある。なんだか分かる?『自由に演奏していいよ』だよ。この言葉を聞くと、みんな一瞬にしてフリーズしてしまう。日本の教育で、自由にしてはならないと叩きこまれているから。だけどさ、自由っていうのはさ、『自由にさせる方法』があるんだって。うちの長女なんか、3歳から包丁を握っている。子供は自分のやりたいことは、集中しているからけがをしないんだよ。だから、俺は、子供たちになんとかして『自由とはこういう感覚だ』ということを伝えたくてどうしたらいいか考えた。そうしたら、音楽とか楽器を自由自在に操る一流のミュージシャンの演奏に接するのがいいって閃いたんだ」。

■ターニングポイント

大きな転機が訪れたのは2001年10月12日。その日、帰宅して目に飛び込んで来たのは完全に焼け落ちた我が家だった。幸い家族は全員無事だった。

「びっくりするよね。明日火事が起きて、家が崩れ落ちるなんて誰も予期できるもんじゃないからさ」。警察の現場検証を待つあいだ、家の前の田んぼで呆然と立ち尽くす。

「でも、頭の中ではものすごいスピードで考えているんだよ。もう何もかも燃えちゃって無いんだよ。今晩どこに寝ようとか考えたことある?」

しかし、次の瞬間、不思議な感覚に襲われる。

「地面に生えている草を見て、あれは食える、これは食えないって、すごいスピードで判断していたの。で、それが正しいということも同時に分かるんだよ。あれ?俺どうして分かるんだろ」。

その時だった。突如、地の底からわき上がって来るような圧倒的な感覚に包まれたのだ。

「俺は今、何ももってない!裸一貫で生きている!自由だ!そして、愛する家族は生きている。それはもう、神の祝福に近い感覚だったね。そこからなんだよね、すべてが変わっていったのは」。


この火事を境に、榎田さんの活動は急速に発展していった。

■横浜学生映画祭

2002年、横浜初の学生映画祭「第1回横浜学生映画祭」を開催する。きっかけは、日本映画学校の学生に映画音楽を提供したことだった。

「仲良くなってみると、映画産業の構造の惨憺たる様子に愕然としたわけ。学生の未来はお先真っ暗。みんな食えない。一緒に活動して情が移ったんだね。彼らが活躍できる場を作ろうと思ったんだよ。たまたま横浜で学生映画祭を開催しようという話が持ち上がったから、気楽に引き受けた。けど、あんなに大変だと知っていたら引き受けなかったよ(笑)」。

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第6回横濱学生映画祭

上映作品が直前まで決まらないのは当たり前。会場が見つからない。スタッフが圧倒的に足りない。機材が足りなくて、時にはシーツをスクリーン替わりに上映することもあった。そういった苦労を経て3回目の開催を果たした2005年、今までの実績を買われ、北京電影学院の客員教授に任命された。


2004年から、榎田さんはRainmaker Projectという砂漠緑地化プロジェクトのプロジェクトリーダーも務めている。このプロジェクトは、海外の乾燥地においてその有効性が実証されている“粘土団子(※)”による緑化を試みるものだ。砂漠化に苦しむケニア共和国政府の緑化プロジェクトの一部として実施するとともに、現地住民に対する同手法の指導を行っている。


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ケニアでの粘土団子散布の様子

■バランスをとること

ミュージシャンとしての活動、NPO法人横浜アートプロジェクトの理事長、伝わるものコンサート、横浜学生映画祭、Rainmaker Project。これらの活動は一見ばらばらに見える。しかも、ひとつひとつは到底片手間でできるようなものではない。にもかかわらず、同時進行させる榎田さんは、一体どのようにバランスをとっているのだろうか。

「バランスの定義にもよるよね。肉も魚もほどほどに、とか、無理したらいけない、とかいうのをバランスの定義とするなら、そういう感覚は俺の中にないんだよ。俺にとって、バランスの定義って、『物凄い波が次々押し寄せる海原をサーフボードで乗り越え続けるようなもの』だから」。

しかし、そうはいっても、活動があまりに多岐にわたりすぎている。自分の中でぶれることはないのだろうか。

「なんで?中心があったらぶれないんだって」。中心?榎田さんにとっての中心とは一体なんなのだろうか。


「愛だよ」。一言。腑に落ちた気がした。


「火事が起こったとき、愛するものがこの世に生きているということがどれだけ幸せなことか分かったんだよ。そうしたら、愛する子供の幸せな顔を見たいとか、この子たちが将来呼吸するのが苦しかったら嫌だなって思った。だから、ケニアで砂漠の緑化に取り組むし、『自由に演奏していいよ』といったらフリーズするように教えこむ学校に自分の子供を行かせたくないと思ったら教育の問題にもぶちあたる。すべてはつながっているんだよ」。

■今後の展望

榎田さんに今後の展望を尋ねてみた。「決まってないよ。ケニアも映画祭も俺が必要な間は居るけど、彼らが自分たちだけで回せるようになったら俺は抜ける。そうしたら、また新たになにかやることがでてくるよ。今までずっとそうだったように」。

■アートとは、生きること、生命

榎田さんにとってアートとは何か、という問いに対して「生きること、生命だね」。という答えが返ってきた。

インタビューが進むにつれ、この答えが返ってくるだろうことを予感していた。



ここに竜がいる。この竜は、あるときは、中国で映画音楽を、あるときは、ケニアで緑地化を、あるときは、子供の心を守るため、神出鬼没に世界を駆け巡る。巻き起こした竜巻のあとには、豊かな緑が大地を潤すという。


そう、榎田竜路は、関わるものすべてに恵みをもたらす竜なのだ。



(※)粘土団子とは:自然農法提唱者、福岡正信氏提唱の播種方法であり、種子を粘土で覆い団子状にしたものを地面に播く方法。粘土は細菌の繁殖を防ぎ、発根に必要な養分を含有し、種子を粘土で覆うことにより鳥や虫のえさになることを防ぎ、種子自身を乾燥から守る。また、球形にすることにより割れにくく、地面と接した1点に日中と夜との気温差で生じた結露により水分が集まり、発根させるという仕組みとなっている。
1つの粘土団子には2,3粒の種子が入るように作り、1カ所に数十~百種類の種子を蒔くが、その土地にあった種子だけが発根し生育する。播種方法は極めて簡単で、ただ土の上に置くだけで、水も、肥料も必要としない。低コストで大きな効果を期待できるこの手法は既にインド、フィリピン、ギリシャ、タンザニアなどで効果を上げている。


c0103430_1056587.jpg■プロフィール
榎 田 竜 路(えのきだ りゅうじ)
音楽家、北京電影学院客員教授、
NPO法人横浜アートプロジェクト理事長
演奏・作曲活動を続ける傍ら「子供の感覚教育活動」を展開するNPO法人横浜アートプロジェクトの理事長として、横濱学生映画祭をはじめ様々なイベントをプロデュースする等、常に生命に眼差しを向けた活動を行っている。
北京電影学院や日本映画学校などの学生映像作品への楽曲提供など若手映像作家の育成支援も行っている。
好きな言葉:愛
榎田竜路さんご本人のブログ「ケダモノのすすめ」はこちら  



■手書き一問一答
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■今後の活動予定
・伝わるものコンサートvol.62
第6回横浜学生映画祭 平成17年10月26日(金)~10月28日(日)
Rainmaker Project(レインメーカープロジェクト)


text:金子きよ子、edit:谷屋、ドイケイコ

※ すべての画像とテキストの無断転載を禁止します。
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by art-drops | 2007-04-15 09:24
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