不在の狂躁
レポート

text:U→

11月21日より12月24日まで府中市立美術館にて第三回府中ビエンナーレが行われている 。作品の詳細を述べるのは避け、飽くまで記者が作品と作品展示から何を受けたのかを書き留めることにする。
 




 従来ビエンナーレという言葉は世界各国の作品を集めて国際的な展覧会を指すものとして用いられる<※1>。出展作家は7人(大竹敦人境澤邦泰松井茂小林耕平窪田美樹森本太郎豊嶋康子)で全員が府中地区出身ないしは在住、全員が日本人でありかつ地元にゆかりがある。
 となると展覧会の文脈で用いられる「ビエンナーレ」とは大幅に異なる。つまり、コンセプトが地元出身の芸術家支援ないしは紹介にとどまっていると言える。しかしながら、地元密着感を打ち出そうとする総合文化施設の姿勢が伺える。
 さて、作品展示と作品についてだが、ここで記者が気になった松井茂のみをあえて取り上げることにしよう。

彼は詩人ということで、厳密には美術系統の人間ではない。展示室に入ると、絵画や彫刻があるわけではない。正面には大きな机があり、手鏡が開かれて鏡面が鑑賞者に向けられ規則正しく並べられ、その机を埋めている。壁には折れ線グラフが描かれた紙とマス目がひたすら描かれたキャンバス。
そして隅にあるモニターには画面の右上端と左下端から白と黒のマス目が、前者は下に向かい後者は上に向かい一つ一つ画面を埋めていく。右上と左下から埋まっていき、行が埋まると次の行へ行くためモニターの真ん中でぶつかるという予想を裏切り、そこまで埋まらずに途中でも埋まる前の状態に戻り、埋まるという反復がなされる。しかもそのマス目の色は不規則に登場する。そして机の向こう側、入り口の正面の壁には漢数字の「一、二、三」が行に沿ってやはり右上から埋まっている。ここでも数字の順序はランダムである。
その横には同じくモニターがありマスと同様に漢数字の「一、二、三」が右上端と左下端から埋まっては消えるという反復の運動。「果たしてこれは何だ?」という印象を、出展作家の中でも最も強く感じさせてくれる。


解釈をここで差し挟んでみると、詩のみならず文章を書くことは、我々日本人にとって通常右上から行に沿って左への進行を意味している。清書となると、今日では余り使用しないが、原稿用紙のマス目に一文字をきちんと嵌め込み、そのマスから外れると「汚い」文字として捉えられてしまう。しかしながら、文字はそれが発音され記述された時点から意味を有しており、音素単位でさえ何かしらのイメージが脳に付着する。
そうしたイメージの付着を避ける媒体を音ではなく、視覚という別次元に落とし込むことは可能なのか?通常、視覚によって認知される作品カテゴリー(写真、絵画等)でイメージ回避を実践するならば、断片の提示、つまりコラージュであったりモンタージュといった手法があり得る<※2>。文字を視覚により認知し、物語なりイメージを生成する文学や詩というカテゴリーも確かに文節切断や助詞の省略等で従来のイメージからの脱却を図ることは可能だ。しかし、詩は音、つまり聴覚認知に頼るところが大きく、例え視覚レヴェルで奇異に感じても音ならば「メロディー」として一定のイメージが生成される。

とすると松井の展示作品は文字(数字が単に個数を表すものであり、複数の意味を指し示さないとすればこれに該当しない)の不在、音の不在により上記の生成過程を回避している。しかしながら、不在ということは「何かがない」のではない。逆説的に捉えると、何を惹起してもよいのである。作品に対するイメージは豊潤となり、我々の感受性が試されているとはいえないだろうか?
現在我々を取り巻く環境は、様々な物質と情報に溢れている。氾濫したものを借用することと新しいものを創造することの境界がわからなくなっている。もう一度創造という行為の根源を辿ると、「ない」から「ある」状態の生成に帰着する。そこで詩というジャンルならば文字が生成されることになる。松井の詩はまさにこの点によって豊潤さを獲得し、「開かれ」を実現していると言えよう<※3> 。文字という媒体に頼らず、展示空間という媒体を用いて詩を編み込もうとする松井のうまさなのか、この作家をこういった形で展示しようとしたキュレーターの匠なのか。

七人による「ビエンナーレ」であり、視覚的な面白さ多様さはない。しかし、鑑賞という行為に徹するならば、極めて豊かなものが得られると思う。このビエンナーレが掲げる「ポスト・バブル」に対する解釈は提示しない。しかし松井の作品のみから紡ぎ出すことを許されるならば、従来立脚していた感覚媒体の横断(音と文字から展覧会という視覚的経験への移行)即ち「クロスオーヴァー」と言えまいか。それは今日多くの美術メディアが謳う常套句でもある。今日が「ポスト・バブル」という時代という定義に収束されたとき、府中ビエンナーレのテーマと上記の常套句は合致すると言えよう。


<※1> Bienaleはイタリア語で二回に一度の意味。隔年で開かれる展覧会。イタリアのベネチアで1895年から開かれている「ベネチア・ビエンナーレ」が元祖で、近年では絵画から建築、映画、音楽などあらゆるジャンルの芸術が集う国際的な展覧会を指すようになり、様々な国や地域で開催されている。いわばオリンピックの芸術版と言えよう。

<※2> コラージュは「糊付け」という意味のフランス語が語源で、現代絵画の技法の一つとされている。パヴロ・ピカソに代表されるキュビズムの画家達が用い一般的になる。写真では1910年代末から1920年代初頭にかけて、ベルリン・ダダに属するラウル・ハウスマンとジョン・ハートフィールド、ロシアでは立体未来派のアレクセイ・クルチョーヌィフらが、それぞれ独立してはじめたといわれる。特徴として意外性、批判性、幻想性が挙げられ、それらを主眼としたダダやシュルレアリズム、大枠では20世紀初頭から中盤の前衛芸術運動で用いられた。

<※3> イタリアの記号学者であり哲学者ウンベルト・エーコ(1932-)が『開かれた作品』(1984年、篠原資明、和田忠彦共訳、青土社)で展開する作品享受概念。彼に拠れば、芸術作品は表層と深層から構成されており、表層部分つまり形態が曖昧かつ不明確であれば、通底する作品深層の解釈の可能性が増すとしている。「開かれた作品」はそうした作品の受け手の解釈を豊かにさせるものであるとしている。但しその解釈の多様性は作者によって規定された範囲内であり、その意味において多様な作品解釈というよりも解釈という選択幅の拡充に充てられた概念と言えるかもしれない。
[PR]
by art-drops | 2006-12-20 01:14 | レポート
<< 大竹伸朗の魅力 忘れられない作品 >>